§§   劉萬傳部落格

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主題:一生的見証
發表:劉萬傳 2010-08-23 11:33:25 閱覽數:8561 (IP: ) T 3099_R 0 引 用
我的一生的見証

             あかし
最近(さいきん)何時(いつ)も日本(にほん)に住(す)んでいた時(とき)の事(こと)が浮(うか)んで参(まい)ります。
 神様(かみさま)はどんなに守(まも)って下(くだ)さったかという事(こと)を﹁証(あかし)﹂しないと気(き)がすまない気持(きもち)が何時(いつ)も頭(あたま)に浮(うか)んで参(まい)ります。私(わたくし)はキリスト教(きょう)の家庭(かてい)に生(う)まれました。四人(よんにん)のお姉(ねえ)さんがいます。当時(とうじ)台湾(たいわん)は日本(にほん)の殖民地(しょくみんち)でした。私(わたくし)は国民(こくみん)学校(がっこう)五年生(ごねんせい)の時(とき)に一人(ひとり)で東京都(とうきょうと)淀橋区(よどばしく)淀橋(よどばし)第四(だいよん)国民(こくみん)学校(がっこう)に転校(てんこう)しました。従兄(いとこあに)と従姉(いとこあね)十数名(じゅうすうめい)一緒(いっしょ)に大久保(おおくぼ)で一軒(いっけん)の家(いえ)を借(か)りて生活(せいかつ)していました。私(わたくし)は一番(いちばん)小(ちい)さかったので大(たい)変(へん)可愛(かわい)がられて寂(さび)しい気持(きもち)はしませんでした。本当(ほんとう)に兄(あに)や姉(あね)に「大変(たいへん)有難(ありがと)うございましたという気(き)持(も)ちで一杯(いっぱい)です」。夕食(ゆうしょく)後(ご)必(かなら)ず皆(みんな)で讃美歌(さんびか)を歌(うた)って家庭(かてい)礼拝(れいはい)をします。私(わたくし)は日曜日(にちようび)になると必(かなら)ず柏木(かしわぎ)教会(きょうかい)の日曜(にちよう)学校(がっこう)に参加(さんか)します。そして一年(いちねん)中(ちゅう)一回(いっかい)も欠席(けっせき)したことがなっかたので精勤(せいきん)の賞状(しょうじょう)を貰(もら)いました。神様(かみさま)が守(まも)って下(くだ)さいましたことを大変(たいへん)感謝(かんしゃ)して居(お)ります。青山学院(あおやまがくいん)中学部(ちゅうがくぶ)に合格(ごうかく)できたことは、つくずく神様(かみさま)の御(ご)聖霊(せいれい)が私(わたくし)と共(とも)にいらっしゃることを悟(さと)るようになりました。そして英語(えいご)の課目(かもく)の時間(じかん)、先生(せんせい)は必(かなら)ず私(わたくし)をよんで、先(さき)に英語(えいご)を一回(いっかい)読(よ)んでから始(はじ)まるのでした。
ある日(ひ)、日曜学校(にちようがっこう)の先生(せんせい)が「兵隊(へいたい)さんに行(い)かなければいけない」とおっしゃいました、私(わたくし)は「先生(せんせい)、イエス様(さま)は人(ひと)を殺(ころ)してはいけないとおっしゃいましたのにどうして兵隊(へいたい)さんに行(い)くのですか」と質問(しつもん)しました。「いや、私(わたくし)は人(ひと)を殺(ころ)しません。」「あなたが殺(ころ)さないとかえって殺(ころ)されますよ」「いや神様(かみさま)が天使(てんし)を使(つか)って守(まも)って下(くだ)さるから大丈夫(だいじょうぶ)だ、安心(あんしん)しなさい」と先生(せんせい)がおっしゃいました。この言葉(ことば)をいつも心(こころ)に置(お)いていました。ある日(ひ)、私(わたくし)は学校(がっこう)から帰(かえ)る途中(とちゅう)急(きゅう)に四(し)、五(ご)人(じん)の同窓生(どうそうせい)が私(わたくし)を囲(がこ)んでさんざんになぐりました。その時(とき)奇蹟(きせき)がおこり急(きゅう)に五(ご)、六(ろく)人(にん)の韓国人(かんこくじん)が助(たす)けてくれました。私(わたくし)は何(なに)も知(し)らずにすぐ日曜学校(にちようがっこう)の先生(せんせい)がおっしゃったことを思(おも)い出(だ)した、本当(ほんとう)に神様(かみさま)がお守(まも)り下(くだ)さいました。何時(いつ)も感謝(かんしゃ)してなりませんでした。
 東京(とうきょう)は空爆(くうばく)を受(う)ける様(よう)になりました。私(わたくし)は長崎(ながさき)にいる康(やす)嘉(か)音(おん)医者(いしゃ)と郭(かく)明(めい)華(か)長老(ちょうろう)の所(ところ)に疏開(そかい)
しました。長崎(ながさき)で一年(いちねん)たらずのある日(ひ)、近所(きんじょ)に三(みっ)つの爆弾(ばくだん)がおちました。そして、沢山(たくさん)の人(ひと)が死(し)にました。私(わたくし)は又(また)山形(やまがた)にいる呉(くれ)松(まつ)彥(ひこ)医者(いしゃ)の所(ところ)に疏開(そかい)しました。そして、まもなく広島(ひろしま)に原子爆弾(げんしばくだん)が
落(お)ちました。三日(みっか)後(ご)又(また)長崎(ながさき)に原子爆弾(げんしばくだん)が落(お)ちました。丁度(ちょうど)私(わたくし)が以前(いぜん)住(す)んでいた所(ところ)に落(お)ちました。
私(わたくし)は聖書(せいしょ)の言葉(ことば)を思(おも)いだした。「イエスキリスト様(さま)を信(しん)じる者(もの)がひとりも滅(ほろ)びないで永遠(えいえん)の命(いのち)を
得(え)るためである」と聖書(せいしょ)のヨハネによる福音書(ふくいんしょ)第三章(だいさんしょう)十六節(じゅうろくせつ)にはっきり書(か)いてあります。神様(かみさま)有(あ)りがとうございました。長崎(ながさき)の原爆(げんばく)で終戦(しゅうせん)となりました。
各地(かくち)に疏開(そかい)した従兄(いとこあに)、従姉(いとこあね)は皆(みな)無事(ぶじ)で東京(とうきょう)に帰(かえ)って来(き)ました。そして、翌年(よくねん)の二月(にがつ)に台湾(たいわん)へ帰(かえ)りました。船(ふね)の中(なか)で毎日(まいにち)ほとんどの人(ひと)がバクチをしているのを見(み)て大変(たいへん)心苦(こころぐる)しかったです。私(わたくし)
達(たち)十数(じゅうすう)名(めい)で聖歌隊(せいかたい)をくんで毎日(まいにち)讃美(さんび)歌(か)を歌(うた)って神様(かみさま)の御言葉(みことば)を宣(の)べ伝(つた)えました。そうすると大変(たいへん)
怒(おこ)って私(わたくし)達(たち)皆(みな)海(うみ)の中(なか)にほほおりこむと言(い)いました。そしてあらそっている時(とき)に突然(とつぜん)海上(かいじょう)に激(はげ)しい暴(ばく)風(ふう)が起(おこ)って船(ふね)は波(なみ)にのまれそうになりました。その時(とき)どんな宗教者(しゅうきょうしゃ)であろうが皆(みな)伏(ふ)して神様(かみさま)
助(たす)けて下(くだ)さいとさけびました、私(わたくし)達(たち)は皆(みな)イエス様(さま)にお助(たす)けて下(くだ)さいとお祈(いの)りしましたら奇蹟(きせき)が起(おこ)り風(かぜ)と海(うみ)が急(きゅう)に静(しず)かになりました。これは聖書(せいしょ)マタイ福音書(ふくいんしょ)第八章(だいはちしょう)二十六節(にじゅうろくせつ)に書(か)いてある様(よう)にイエス様(さま)は神様(かみさま)の御子(みこ)だとあかししているではありませんか。本当(ほんとう)に神様(かみさま)有(あ)りがとうございました。
 そして船長(せんちょう)さんがよく見(み)なさい台湾(たいわん)が見(み)えてきました。皆(みな)喜(よろこ)んで神様(かみさま)に感謝(かんしゃ)しました。何時(いつ)も
神様(かみさま)の御(ご)聖霊(せいれい)が心(こころ)の中(なか)に宿(やど)って下(くだ)さいます様(よう)にお祈(いの)りしなければならないとつくづく思(おも)います。本当(ほんとう)に神様(かみさま)がお守(まも)り下(くだ)さらなかったら台湾(たいわん)に帰(かえ)ることができなかったと思(おも)います。本当(ほんとう)に神様(かみさま)有(あ)りがとうございました。
 第二次(だいにぢ)世界(せかい)大戦(たいせん)が激(はげ)しくなってもう台湾(たいわん)には帰(か)えられないと思(おも)っていました。神様(かみさま)のお守(まも)りに依(よ)って無事(ぶじ)に帰国(きこく)できたこと本当(ほんとう)に、感謝(かんしゃ)の致(いた)りでございました。当時(とうじ)台湾(たいわん)の社会(しゃかい)は大変(たいへん)乱(みら)れてい

るのを見(み)てがっかりしました。正義感(せいぎかん)がないばがりか自己(じこ)主義(しゅぎ)で、大変(たいへん)おそろしい一面(いちめん)もあった。私(わたくし)は半(はん)としで三(みっ)つの学校(がっこう)を換(か)えました、最後(さいご)の学校(がっこう)は師範(しはん)学校(がっこう)でした。将来(しょうらい)一生懸命(いっしょうけんめい)に学生(がくせい)を教育(きょういく)して立派(りっぱ)な人間(にんげん)に成(な)らしたいといふ決心(けっしん)が失敗(しっぱい)となった。毎(まい)年(ねん)ごとに悪化(あっか)しているのです。幼児(ようじ)心(しん)理学(りがく)から見(み)れば子供(こども)三歳(さんさい)の時(とき)が自我(じが)発展(はってん)の時期(じき)に良(よ)く教育(きょういく)しなかったせいだと思(おも)って、私(わたくし)は早(はや)目(め)に停年(ていねん)して幼稚園(ようちえん)で頑張(がんば)ったけどやっぱりだめだった。宗教(しゅうきょう)までが乱(みら)れているとはもう末日(しゅまつ)時(じ)代(だい)、イエス様(さま)の御(ご)再臨(さいりん)がやって来(く)る時期(じき)ではないか、最近(さいきん)この世界(せかい)に発生(はっせい)した天災地変(てんさいちへん)のことは何(い)時(つ)も続(つづ)いています。台湾(たいわん)の921大震災(だいしんさい)と八八の大洪水(だいこうずい)、それから海(かい)地(ち)と智(ち)利(り)の国家(こっか)の大震災(だいしんさい)、おまけに気候(きこう)の変化(へんか)等(など)皆(みな)様(さま)かんじませんでしょか?
世(よ)の終(おわ)りには、どんな前兆(ぜんちょう)がありますか。それはマタイによる福音書(ふくいんしょ)第二十四章(だいにじゅうよんしょう)第七節(だいしちせつ)から十(じゅう)四節(よんせつ)「民(たみ)は民(たみ)、国(くに)は国(くに)に敵対(てきたい)して立(た)ち上(あ)がるであろう。またあちこちに、ききんが起(おこ)りまた地震(じしん)があるであろう。しかしすべてこれらは産(う)みの苦(くる)しみの初(はじ)めである。その時(とき)人々(ひとびと)は、あなたがたを苦(くる)しみにあわせ、また殺(ころ)すであろう。またあなたがたは、わたしの名(な)のゆえにすべての民(たみ)に憎(にく)まれるであろう。そのとき、多(おお)くの人(ひと)がつまづき、また互(たがい)に裏切(うらぎ)り、憎(にく)み合(あ)うであろう。また多(おお)くのにせ預言者(よげんしゃ)が起(おこ)って、多(おお)くの人(ひと)を惑(まど)わすであろう。また不法(ふほう)がはびこるので、多(おお)くの人(ひと)の愛(あい)が冷(ひ)えるであろう。しかし、最後(さいご)まで耐(た)え忍(しの)ぶ者(もの)は救(すく)われる。そしてこの御(み)国(くに)の福音(ふくいん)は、すべての民(たみ)に対(たい)してあかしをするために、全世界(ぜんせかい)に宣(の)べ伝(つた)えられるであろう。そして、それから最後(さいご)が来(く)るのである。」私(わたくし)は何時(いつ)も考(かんが)えているのはこの世界(せかい)で一番(いちばん)快楽(かいらく)と平安(へいあん)はどこにあるか?家庭(かてい)と教会(きょうかい)です。ある人(ひと)は神様(かみさま)は何時(いつ)も私(わたくし)と共(とも)にいる、そうです神様(かみさま)は何時(いつ)もあなたと共(とも)にいることが最高(さいこう)です、それを何時(いつ)もあかししたら神様(かみさま)はもっともっと嬉(うれ)しいです。
三年(さんねん)前(まえ)急(きゅう)に体(からだ)の調子(ちょうし)が悪(わる)くなりました。一日(いちにち)一日(いちにち)と元気(げんき)がなくなり高雄(たかお)医学院(いがくいん)に入院(にゅういん)して検(けん)査(さ)してもらった結果(けっか)頸椎(けいつい)の第(だい)四(よん)、五(ご)、六(ろく)節(せつ)の骨(ほね)がくずれちゃって神経(しんけい)を圧迫(あっぱく)し、歩(ある)けなくなりました、ところでお医者(いしゃ)さんはなかなか手術(しゅじゅつ)してくれませんでした。
ある日(ひ)、私(わたくし)の床(とこ)の壁(かべ)を見(み)たら沢(たく)山(さん)の天使(てんし)がおどっているではありませんか。すぐ嫁(よめ)に「この壁(かべ)に沢山(たくさん)の天使(てんし)がおどっているのが見(み)えますか」「全然(ぜんぜん)見(み)えない」と答(こた)えました。不思議(ふしぎ)だなと思(おも)っている時(とき)に壁(かべ)の右(みぎ)の方(ほう)から左(ひだり)の方(ほう)へとイエス様(さま)の輝(かがや)いた笑顔(えがお)がゆっくりゆっくりと歩(ある)いて見(み)せて下(くだ)さいました。私(わたくし)は喜(よろこ)んですぐお医者(いしゃ)さんに早(はや)く手術(しゅじゅつ)して下(くだ)さい。もう我慢(がまん)できません、とお願(ねが)い致(いた)しました、それで翌日(よくじつ)九時(くじ)間(かん)の手術(しゅじゅつ)を受(う)けました、三(みっ)つの骨(ほね)を人工(じんこう)の骨(ほね)に取(と)り換(か)えました。お医者(いしゃ)さんは嫁(よめ)に「早(はや)く手術(しゅじゅつ)してよかった、もう二日(ふつか)遅(おく)れたら大変(たいへん)なことになっていたでしょう」とおっしやいました、本当(ほんとう)に神様(かみさま)ありがとうございました。
本当(ほんとう)にイエス様(さま)の輝(かがや)いた笑顔(えがお)でゆっくりゆっくりと歩(ある)いて見(み)せて下(くだ)さらなかったら、今(いま)はもうこの世(よ)の中(なか)にはいないと思(おも)います。だから私(わたくし)が何時(いつ)も心(こころ)に置(お)いていることを言(い)わなかったら心(こころ)が苦(くる)しいです。それはこの世(よ)の中(なか)で一番(いちばん)平安(へいあん)で快楽(かいらく)な所(ところ)は教会(きょうかい)と家庭(かてい)です。教会(きょうかい)と家庭(かてい)の土地(とち)
をふんだ時(とき)の気持(きもち)は心(こころ)の中(なか)から何(なん)ともいえない嬉(うれ)しい気持(きもち)が湧(わ)き上(あ)がつてきます。ところが教会(きょうかい)の中(なか)で神様(かみさま)のお教(し)えを守(まも)らない人(ひと)達(たち)は恐(こわ)いですね。教会(きょうかい)の中(なか)で何時(いつ)も権威(けんい)を争(あら)そっている人(ひと)達(たち)は神(かみ)様(さま)よりも偉(えら)いだと思(おも)っているからです。悪魔(あくま)の恐(おそ)ろしさが分(わか)りますね。でも悪魔(あくま)に負(ま)けないように頑張(がんば)って一生懸命(いっしょうけんめい)にお祈(いの)りしましょうね。そして日曜日(にちようび)、クリスチャンでありながら教会(きょうかい)に
行(い)かない人(ひと)は一番(いちばん)可哀想(かわいそう)だと思(おも)います。どうかこんな人(ひと)達(たち)の為(ため)にお祈(いの)り致(いた)しましょうね。
皆(みな)様(さま)ありがとうございます。





         我的見證 2010/06/08
最近腦海常浮現我住在日本時,上帝如何地照顧我,使我能平安回到台灣來的見證。
猶記得在我小學五年級時,我隻身從台灣轉學到日本東京都淀橋第四國民學校就讀,那時正是第二次世界大戰爆發前二年。台灣當時仍是日本的殖民地,學校的課程和日本本國之間的程度差距相當大,幸好那時和七、八位表哥、表姊同住在大久保,課業因為有他們的指導,所以很快就進入狀況了。在那裡,我是年紀最小的,因此大家都很疼愛我、照顧我,讓我不會想家、不會感到寂寞。於今思起,真是非常感謝我的父母送我去日本讀書,也感謝我的表兄、姐們對我的關愛!
在日本就學的那段時光,我們晚餐後會齊唱讚美歌、做家庭禮拜,之後才是個人時間。每逢星期日,我一定參加柏木教會的主日學,從未缺席過,也因此教會頒給我一張全勤獎獎狀。日後我考上青山學院中學部、中學時的英語老師總是在上課前叫我讀一遍課文給大家聽;種種情事,更讓我感受到上帝聖靈常與我同在,真是感激上帝對我的照顧。
有一天,主日學的老師說他要去當兵,我問老師:「耶穌說不能殺人,你為什麼要去當兵呢?」
老師回答說:「我不會殺人的。」「你不殺他,反而會被殺呢!」「不,不會的。上帝會派遣天使保護我的,請放心好了!」老師的這番話我常記在心裡。後來,在一次放學途中,突然有四、五個同學圍毆我,當時心中只是不斷的想著主日學老師對我說過的話,沒想到奇蹟竟然出現了||有五、六位韓國人跳出來替我解危,頓時直覺得是天使來救我,再次感受到上帝對我的愛。
第二次世界大戰爆發,美軍最大的轟炸機B29空襲東京,我們這群大、小孩就由謝偉醫師(也是牧師)安排疏散到各個安全地方,並且保持聯絡。我先到長崎康嘉音醫師和郭明華長老家裡,然而不到一年長崎又被空襲了,在我住處附近甚至曾落下三顆炸彈。戰爭現場真是慘不忍睹,死傷遍野、哀嚎四起,猶如人間地獄。有鑑於情況如此危險,於是我又被疏散到山形吳松彥醫生的家。從長崎坐火車到山形,短短的路程因為不斷和轟炸機捉迷藏,所以足足花了兩天的時間才到達。日本在第二次世界大戰爆發後的前兩年,戰績非常好,因此生活還很富裕,也能收到家裡寄來的錢。但是當美軍開始反攻時,日本節節敗退、叫苦連天;我們不但收不到家裡寄來的生活費,生活物資也極度缺乏,被配給的是豬的飼料,吃白米飯是一種奢望。既然沒有錢就得想辦法填飽肚子,去打工、抓蝗蟲、吃青蛙等等,連吃橘子都得先吃皮再吃果肉,雖然如此辛苦,仍常常吃不飽或餓肚子。在山形住了不久,美軍在廣島擲下新炸彈,當時日本還不知道有原子炸彈,所以仍頑命抵抗,直到美軍在長崎投下第二顆原子彈後,原爆的威力才逼使日本天皇無條件投降,結束了第二次世界大戰。而那第二顆原子彈剛好投在我以前住的地方,幸運逃過一劫的我,心中浮現了聖經約翰福音第三章十六節:「上帝深愛世人,甚至賜下自己的獨生子,好叫凡信從他的人都不致滅亡,反得永生。」讚美上帝、感恩上帝。
  疏散到各地的表兄、姐都平安回到東京了,感謝主,我們又能再住在一起了。隔年二月,我們搭船回台灣;在船上目睹許多人幾乎每天都在賭博,我們看了心裡很難過,於是我和表兄、姐們組成了
聖歌隊,每天唱讚美歌給他們聽並且向他們傳福音。但是他們非但不聽,反而非常兇惡,要把我們一
個個丟到海中。雙方在對峙時,突然海上起了暴風、波濤洶湧,巨浪似乎要將船吞噬了,此時無論信奉哪個宗教的人,都伏下向其信奉的神求救。而我們這群上帝的子民即同心祈求上帝保佑|突然奇蹟出現了,風和海在瞬間平靜無波。這就是在聖經馬太福音第八章第二十六節所描寫的見證嗎?「耶穌起來斥責風和海,風和海就大大的平靜了。」很感謝主的救命之恩。這時船長告訴大家「已經看到台灣了。」大家聽了很高興、真是感念上帝的保佑,若是沒有神蹟出現,我們就不能回到台灣了。
  承蒙上帝的照顧,我們平安回來了。但是那時台灣社會仍很亂,沒有正義感、自私自利,有很可怕的一面,我半年換了三個學校才安定下來,最後一個學校是師範學校。畢業後在小學教育小朋友,要做個有用的人,但孩子的品德一年比一年惡化,於是我再三思考問題之所在。以幼兒心理學來說,小孩三歲是自我發展的最佳時機。我捫心自問:難道是幼兒教育有力有未逮之處嗎?於是我就提早退休辦幼稚園,可是還是不行,人心仍然不斷沉淪,連宗教界也失序了。這是世界末日要來臨的前兆嗎?還是耶穌再臨的時候到了?近日世界上發生的天災地變不計其數:台灣921大地震和八八水災、海地、智利等國家發生的大地震、氣候的變化等等,難道大家都沒有感覺嗎?耶穌降臨的預兆寫在馬太福音第二十四章第七|十四節:「民要攻打民,國要攻打國,多處必有饑荒、地震,這都是災難的起頭,那時人要把你們陷在患難裡,也要殺害你們又要為我的名,被萬民恨惡。那時必有許多人跌倒也要彼此陷害、彼此恨惡。且有些假先知起來迷惑多人。只因不法的事增多,許多人的愛心才漸漸冷淡了。惟有忍耐到底的必然得救。這天國的福音要行遍天下,對萬民做見證。」我常想這世界最平安快樂的地方是哪裡呢?是家庭和教會。回到家或去教會,心裡都會湧出平安和喜樂。也許有人說「因上帝常與我同在,所以我在哪裡都平安快樂呀!」對,上帝最高興的正是這一點,能時時刻刻為主做見證,再也沒有比這個更高興的呀!
  三年前突然身體覺得不舒服,一天比一天惡化,沒有力氣,經急診馬上入住高雄醫學院,檢查結果顯示頸椎的骨頭壓迫到神經,導致身體癱瘓不能走路,因風險高所以醫生不願貿然替我動手術。有一天,在我病床的牆壁上出現很多天使在那裡跳舞,我馬上問媳婦:「你是否看見牆壁上有很多天使在跳舞?」「完全沒看到。」媳婦這樣回答我。這時又出現另一個畫面,只有一個黑黑的人影,這景象使我憶起在日本山形時,有一天晚上也是出現同樣黑黑的三個人影在我眼前,有如此不可思議的事情嗎?我想這是「魔鬼」,不要看了。就在此時耶穌出現了,祂面露光輝的笑容,慢慢的從右邊走到左邊,此事使我信心大增,心情愉悅的馬上求醫生趕快替我動手術。因此,我隔天就接受長達九個鐘頭的手術,換了三節人造骨頭。醫生向我媳婦說:「好在提早動手術,如果再慢兩天就有生命的危險。」上帝對我的愛,真是無以復加啊!我現在的心境只想在未來如何榮耀主名才好,願上帝來指導我,感謝不盡啊!
如果耶穌沒有出現在我眼前,很可能我已蒙主寵召,與上帝同在了。滿腹心事常置心中,午夜夢迴輾轉反側,真言不吐不快,此為吾提筆所書之因。每人一生皆在追求平安與快樂,與其窮盡一生在
塵世中追尋仍不可得,何不及早跟隨上帝,當祂的子民,即便只是在家庭和教會,平安和快樂即俯拾
皆是,毋須遠求。但目前最令我痛心疾首的是,原本應該是最聖潔、平和之地︱教會,於今亦因爭權奪利、不遵守上帝意旨行事,而被撒旦玷汙了。人心如此脆弱嗎?不,我相信只要我們不斷祈求上帝、向上帝禱告,堅行上帝指引之路,內心之魔會被我們擊敗的。職是之故,每個星期日上教堂、與聖靈同在、與會眾同在,是身為基督徒該奉行之責。我們一起來祈禱吧!
感謝大家!



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